アメリカの機能心理学者ジョン・デューイが、一見大きな関わりなどを持ちそうにないように思えるジョン・キーツに惹かれていたということは、かつてどこかで読んで知った気になっていたけれど、知らないあいだに忘れてしまった事実でした。今ごろになってなぜそんなことを思い出して書いているのかというと、このごろ考えていた「思考の宙吊り」について、ある対話を通じて歴史的なパラドックスの系譜に触れた気がしたからです。ジョン・デューイはイギリスの繊細きわまりないロマン派詩人に惹かれていたどころか、その鮮やかな読解(『経験としての芸術』1934年)を通じて、結果的にプラグマティズムを社会実装へと繋げた印象があります。キーツのネガティヴなもの。。呪詛の御守りのように内面に留まっていたはずの観念が、現代社会の功利主義の判断へと転換されたことは、私には少し理解が難しいものでした。しかし最近マルクスの書いたものとブローデルの書いたものをいくつか交互に読み直していて、歴史の烈しい皮肉というべきもの、つまり「正反対が正反対を生み出す」という事実を思い出したのです。
『十九世紀半ばに、カール・マルクスは見事な経済学的見識に達した。ところが、資本主義者にも字が読めることをマルクスは忘れていた。これが歴史のパラドックスだ。行動に変化をもたらさない知識は役に立たない。だが、行動を変える知識はたちまち妥当性を失う。多くのデータを手に入れるほど、そして、歴史をよく理解するほど、歴史は速く道筋を変え、私たちの知識は速く時代遅れになる』(『サピエンス全史』)
マルクスが資本主義の矛盾をあまりにも鮮やかに描き出したことが、結果として資本主義内の修正能力を高めて共産主義の必然性を弱めてしまったように、世界史ではあまりに反対側のものごとが反対側に成就しているということが起きています。疎外や労働の抽象化といったテーマは現代でも意味を可変させていますが、資本主義はマルクスそのものを吸収して何度も修正を可能とすることで、半永久的に延命化を果たしていたのです。一方でジョン・キーツは彼の繊細すぎる詩の中で、「ネガティヴ・ケイパビリティ」(Negative Capability)という概念、――つまり、静止したままただ眼前にあるものを極限まで「描写」し、不確実性に耐え、解決しない物事を前に動けないでいる「人間の内面」を描きました。
『いま朝が東方の寝室から静かに姿を現わす 。緑したたる丘の上に最初の爪先が触れ 、芝草の頂きを燃える琥珀色で包みこみ 、汚れなき湧き水を白銀の色に磨きあげていく。水は苔むす岩床から清らかにしたたり落ち 、可憐な草花の寝床から離れると、その爽やかなせせらぎはやがて群をなし小さな湖水に集まり 、湖の畔に小枝のからみあう姿が映り、湖の中心にはいつも高い大空が映え、その湖水にカワセミは輝く羽根の反映をみつめ眼下に泳ぐ鱗光る魚と姿を競い合う』(キーツ)
しかし、こういったパースペクティブの背後たる「近代的主体停止の極限」の意味は、それとは正反対の出来事により、鮮やかに裏返ってしまいます。マルクスが極限の資本主義吟味で資本主義にあらゆる修正箇所をこっそりと教えてしまったように、アメリカの機能心理学者によるキーツの読解は、絶望的なほど静止した人間の内面への処方を、プラグマティズムという生成として発動させてしまったのです。「解決の前の不確実性に佇む能力」(キーツ)が、不確実な世界で生存するための「効果的な動きの技術」(デューイ)へと転がってしまったのは、この「歴史のパラドックス」(ハラリ)をよくあらわしています。前者が描いた「不確実性の極限」と、後者が求めた「不確実性の中で動く確率の極限」は、真理を「静止画か、動的なプロセスか」によって判別をくだす点において、コインの裏表のような、あるいは合わせ鏡のような出来事だったのです。
「役に立つか立たないか」という基準(アメリカのプラグマティズム)が、現代社会のOSそのものとなってしまったことは、ローマで死んだイギリスの「水のような詩人」(キーツ)には、想像も及ばなかったことでしょう。社会に対して果たす責任的な意味で「まったく役に立たなかった」キーツが個人の動けない内面を研ぎ澄ませたことが、結果として功利主義・合理主義の極地であるプラグマティズムに繋がっているのは、本当に奇妙なことです。私は今、まさに自分自身がこの「引き裂かれているのに、まったく引き裂かれてもいない」出来事に打ちのめされています。「行動に変化をもたらさない知識は役に立たない。だが、行動を変える知識はたちまち妥当性を失う」。ユヴァル・ノア・ハラリのこの言葉からは、今になって奥行きの凄まじさを感じさせられます。それはプラグマティズムのごとくコーヒー豆を極限まで効率よく焼きながら、キーツのように永久になんの役にも立たないまま、こんなことを考え続けていることもそうなのです。
